靖江日语-精选中日文对照阅读 60 句読点

句読点  長さが一定で改行のないこのコラムでは、句読点の置き方に制約がある。字数があふれて削るテンもあれば、半端な位置のマルに手を焼く日もある。句点も読点も、一筋縄ではいかない。  かいぎょう[0]「改行」―する長い文章の途中で、今までと少し違った事を述べようとする時に、文を続けないで次の行のあたまから(一字さげて)書き始めること。  一筋縄では行かない普通のやり方では処理できない。「―ない手ごわい相手」  在长度固定多一行也不行的这个专栏里,连标点符号的用法受到了限制。既有因为字数过多而删去标点的情况,也有因为文章中标点的使用而大伤脑筋之时。(这种情况下)句号和逗号,都很难用普通的办法来处理。  どの道にも専門家はいるもので、たとえば群馬県高崎市の元高校教諭、大類(おおるい)雅敏さんは句読法を研究して40年になる。「句読点活用辞典」など著作も多い。同学の士が集まると「モーニング娘。」の「。」は是か非かなどと議論に花が咲くそうだ。  哪一行都有专家,比如群马县高崎市的原高中教师大类敏,在标点符号的使用方法上已进行了40年之久。他出版了《标点符号活用辞典》等多部著作。据说他们同行聚在一起时,经常为”早安少女。”中这个”。”的使用是否正确而讨论得兴致勃勃。  大類さんによると、西洋ではプラトンの昔から句読法が盛んに研究されてきた。コンマ、ピリァ∩、セミコロンと種類も多い。日本では紫式部のころには文章に句読点がなかった。疑問符や感嘆符も江戸期の輸入品である。  据大类先生介绍,在西方早在柏拉图时代就开始盛行标点符号用法的研究。逗号、句号、分号等符号的种类是凛凛种种。日本在紫式部时期,文章中尚未使用标点符号。而像问号及感叹号等是在江户时期才引进的。  大類さんが句読点にひかれたのは20代後半、権田直助という幕末の学者の著作に接してからだ。権田は神官にして医家で尊皇の志士でもあった。政治犯として幽閉された明治初年、句読研究に没頭し、「国文にもきちんとした句読法を確立せよ」と主張した。生家の跡が埼玉県毛呂山(もろやま)町にある。  大类先生对标点符号着迷是在二十七、八岁,接触了一名叫权田直助的幕府末年学者的著作时开始的。权田作为一名神主的医生,曾经是一名尊皇志士。在他作为政治犯被幽禁期间的明治初年,他潜心于标点符号的研究,并主张”在国语里好好得确立标点符号的使用方法”。他的故居遗址位于埼玉县毛吕山镇。  句読点といえば、福島県猪苗代町の野口英世記念館で見た、母シカ自筆の手紙が忘れがたい。「おまイの。しせ(出世)にわ。みなたまけました」。どうか帰国して下されと英世に訴える書状だが、実物を見ると、マルの一つひとつが字ほどに大きい。しかも行の隅でなく中央に置かれている。  说起标点符号,令人想起在福岛县猪苗代镇野口英世記念馆所见其母志贺亲笔所写的书信。”你终于出人头地了,大家都很吃惊。”这是一封看似互换英世回国的书信,但看看那实物,一个个的句号都形如字体一般斗大。而且还不是标注在行的一角而是行的中央。  幼い頃に覚えた文字を思い出してつづった手紙だという。テンも兼ねた大きなマルが、母親の一途な思いを伝える。句読点の結晶を見る思いがした。  据说这是野口母亲努力回忆幼年所学汉字而写成的书信。兼具着逗号作用的这斗大的句号,传递着母亲对儿子无限的思念。令人从中体会到了这标点符号中所凝聚的爱的结晶。